『科学哲学への招待』で科学とは何かについて学ぶ

科学哲学への招待
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こんにちは!かいしーです!

かいしー読書部では、私が読んだ本を紹介していきます!

今回紹介するのは『科学哲学への招待』です。

「科学とは何か」
科学とは何かについて、「歴史的」「哲学的」「社会的」という三つの観点から説明してくれる一冊。
科学って何だろう。
全ての学問は哲学から始まったというけど、科学と哲学って何が違うんだろう。
疑似科学と科学って何が違うんだろう。
科学という言葉はどうやって形作られたものなのだろう。
みたいな疑問に答えてくれる…のかな?といった内容。
何となく言葉だけ知ってた”反証可能性”に対する理解が深まって良かったというのが第一の感想ですね。

要約

「科学」とは何か?

その営みによって、人間は本当に世界を理解できるのか?

ある時代に支配的だった科学理論の確実性が揺らぎ、別の考え方にとって代わられる時、そこに何が起こっているのか?

古代・中世のアリストテレス的自然観を克服し、信仰や迷信から独立することで17世紀に近代「科学」は誕生した。しかしパラダイム転換はくり返され、20世紀には科学技術に伴うリスクも叫ばれるようになる。科学哲学の第一人者がこうした決定的な転換点に光をあてながら、知の歴史のダイナミズムへと誘う。科学神話が揺らぐ今だからこそもう一度深く掘り下げる、入門書の決定版。

科学とは何かについて、「歴史的」「哲学的」「社会的」という三つの観点から説明してくれる一冊。
「歴史的」な観点としては、アリストテレスの自然観から、科学革命とニュートンの機械論的自然観、科学の制度化に関する説明。
天動説の凄まじい力とコペルニクス・ケプラー・ニュートンなどの歴史は科学の鉄板ネタ。よくある説明を改めて行ってくれた。
「哲学的」な観点としては、科学というか論理の基本である演繹法・帰納法・仮説演繹法について、論理実証主義の変換、反証可能性やパラダイム論に関する説明。
「社会的」な観点としては、科学技術という言葉からも見て取れるように、科学が社会と密接に関わっていること、沈黙の春や原子力に関する倫理的側面、リスクや未来の話といった内容。
一言でいうと、「科学に関するさまざまな理論や考え方を、歴史の順番通りに整理整頓してくれる本」といった感じ。

科学とは何か

本来の「科学」

「科学」は英語の「science」の訳語で、「science」の由来はラテン語の「scientia(知)」であり、「scientia」とは「知識全般」のことを指します。

 

「世界はなぜ存在するのか」という問に”神話”を使って答えたのが宗教で、”自然”を使って答えたのが自然哲学と呼ばれるものです。

タレスやヘラクレイトスが「万物の源は水である」「万物は火のように流転する」と考えたように、世界のことを自然現象を用いて説明しようとする試みが自然哲学であり、自然哲学から得られた知識のことを「scientia」と呼びました。

つまり、「科学」(の語源)とは、「世界を自然現象で説明しようとして試みた結果得られた知識」のことをいいます。

実際、ニュートンの著書が『自然哲学の数学的諸原理』であるように、私たちが”科学者”だと思っている人の多くは自然哲学者です。(私たちが現在使っている科学という言葉は18世紀初頭に形作られたものであり、科学者という言葉は19世紀初頭までありませんでした。)

「世界を自然現象で説明しようとして試みた結果得られた知識」という「scientia」がいかにして「science」になり、「科学」になったのでしょうか。

「scientia」から「science」、そして「科学」へ

古代ギリシアにて「スコレー(余暇)」という時間的余裕が哲学の形成に寄与した。

哲学が発展し「快楽のためでも実生活の必要のためでもないような知識」が増えた(scientia)

奴隷ではない、スコレーのある「自由人」が学ぶのにふさわしい理性的学問として自由学芸(リベラルアーツ)が発展した(science)
(職人の手仕事は奴隷階級の労働として明確な上下関係があった)

19世紀・20世紀頃に化学工業や電気工業が発達し、科学が技術に応用されるようになった(現代の意味のscience)

この頃、日本に「科学」として入ってきた

ゆえに、「科学」には技術的な意味も含まれている

こうやって理解すると分かりやすいですね。
元々、科学とは「scientia」、要は、快楽のためでも実生活の必要のためでもない「自然に関する知識」という言葉でしたが、18世紀頃に科学と技術の発展に伴い現代の意味の「science」に変わり、日本に伝わりました。
科学の昔の意味と現代日本における「科学」の意味の違いは技術的なものが含まれているかどうかです。
技術というのは奴隷階級の人が行うものであり、時間のある自由人が学ぶようなことではないという意識が強かったのです。
しかし、科学と技術が進歩し科学的知見が技術に応用され、軍事的な需要なども相まって、技術の社会的地位が向上しました。
この頃、日本に「科学」という言葉が浸透し始めたため、科学技術という言葉もあるように、「科学」という言葉の中に「技術」が含まれるようになったわけです。
スマホやPCは科学の力で作られているものと考えるのも、こういった理由ですね。

反証主義と反証可能性

「科学と科学でないものの違いは何だ」という話に出てくるのが反証可能性という考え方です。
科学の非科学の線引きは明確にできておらず様々な視点から総合的に判断するしかないのですが、反証可能性は1つの考え方として有効です。
反証可能性とは、「間違ってるかどうか確かめることが可能なこと」という意味で、

反証可能性が高い→科学的

反証可能性が低い→非科学的

と考えます。

反証可能性が高いってことは科学じゃないんじゃないか?

と思ってしまいますが逆です。

例えば、「明日は雨が降るか降らないかのどちらかだ」という発言があったとしましょう。

この発言は「AかAじゃないか」という構造をしているため、100%間違いません。

このような「そもそも間違ってる可能性が0%であるもの」は反証可能性が低く、非科学的と言えます。

一方、「明日は午前雨が降り、午後は晴れるだろう」という発言であれば、明日になれば正しいか正しくないか検証することができるため、反証可能性があり科学的といえます。

また、「透明で目に見えないし聞こえないし電波も発していない臭いもない怪獣が目の前にいる」ことが正しかったとしても、いるかどうか・いないかどうかを検証することができないため非科学的である、と考えます。

このように、検証することにより間違いが見つかる可能性の高いものを科学と呼ぶという考えを反証主義といいます。

他にも、反証されたにも関わらず理論を撤回しない・改善しないようなものも非科学的と考えます。

「A型の人は几帳面だよね」は反証可能で科学的な発言ですが、A型だけど几帳面じゃない人がいたときに「まぁ、例外もあるからね」と言ってしまう場合、それは非科学的な考えだというわけです。

ある意味、「理論が反証されたときに潔く主張を撤回する態度が科学的な態度である」とも言えますね。

つまり、反証主義から見た科学の特徴は、

・間違っている可能性があると認める
・間違ってるかどうかを確認する方法を考案する
・検証不可能な説明で言い逃れしない

となります。

この考えを適応すると、我々が現在扱っている科学理論はあくまでも全て仮説であり、反証された結果いつか覆る可能性があるともいえますね。

しかし、現在に至るまで様々な方法で批判・検証されてきたのにも関わらず反証されていないという点で、科学理論は優れているわけです。

結局、科学とは何か

結局、科学と非化学の明確な境目はありません。

しかし、「科学」と呼ばれているものには共通した特徴があり、「こういう性質を持っていると科学と言えるよね」というものはあります。

論理性、体系性、普遍性・再現性、批判性、そしてエビデンスがあるもの。それが科学が持つ共通の性質です。

論理性→理論に矛盾がないか

体系性→他の科学と矛盾していないか

普遍性・再現性→同じ条件であれば繰り返し同じことが起きるか

批判性→色々な批判や検証を乗り越えた理論かどうか

エビデンス→証拠はあるか

これらの要素を全て満たしているものは間違いなく科学と呼んでも良いのではないでしょうか。

しかし、どれくら論理性があれば科学なのかという明確な線引きはありません。

例えば、私が物理学に関する新しい理論を思いついたとき、それが科学的なのかどうかの判断は難しいでしょう。

個人的には、誰かが新しく考え付いた理論であっても、理論が反証されたときに潔く主張を撤回する態度があるのであれば、それは科学的な立ち振る舞いのように思えます。

逆に、

・批判されると言い逃れする
・数学が使われていない、論理的でもない
・研究者じゃない人ばかりから支持されている
・証明不可能な理論を使っている
・幅広い人や場所で検証されたものではない

これらの要素があると科学的とは言えなくなるでしょう。

つまり、上記の論理性~エビデンスがあり、「批判されると言い逃れする~検証されたものではない」が無いもの、それを現代でいうところの科学というのではないでしょうか。

科学哲学への招待

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