こちらの記事でも軽く紹介しましたが、柔道や駅伝など、小学生のスポーツ大会が中止となっています。
小学生の大会においても“行き過ぎた勝利至上主義”が散見されるということで、全国小学生学年別柔道大会が2022年から廃止になりました。どんなところが“勝利至上主義”かというと
・子供に過度な減量をさせる
・保護者が審判に罵声を浴びせるなので全国大会はやめることにして、正しい技やルールを学ぶ育成プロジェクトのイベントを開催するというふうに舵を切ったんですね。
子供に対して過剰な罵声を浴びせる、うまくいかなかった子供を皆の前で叱る、体調が悪くてもチームの勝利のために無理に出場させる…etc.
勝利至上主義を超えた”過剰な勝利至上主義”が問題となっています。
勝利至上主義の是非はもう何年も議論されている内容ですが、小学生のスポーツ大会が中止になったことで、各所で最近また議論が活発になっていますね。
今回は、勝利至上主義は問題なのかどうかについて考えをまとめていきたいと思います。
勝利至上主義は問題なのか 結論
問題なのは勝利至上主義ではなく、暴力等を伴う”過剰な勝利至上主義”だ。
ただ、「”過剰な勝利至上主義”はダメ」と言いつつ、”程よい勝利至上主義”で在り続けるだろう。
勝てない理由を「努力が足りない」として、努力が絶対的に正しいものとし、努力できないのは本人の責任としてしまう。
結局、「結果が全て」の今の世の中を変えることは不可能なので、勝利至上主義はなくならない。
結論は、「”過剰な勝利至上主義”はダメ」と言いつつ、”程よい勝利至上主義”で在り続ける、です。
なぜこのような結論に至ったのかを、順を追って少しずつ説明していきます。
勝利至上主義は問題なのか 結論までの大雑把な流れ
現在、
・罵声を浴びせる
・コーチの言うことが全て
・全ての時間を犠牲に練習する(週末休みなし、練習時間が長い)
・精神的にも肉体的にも追い詰める
等の”過剰な勝利至上主義”は問題視されています。
“過剰な勝利至上主義”のせいで児童・生徒が若い間に使い潰されてしまいますし、燃え尽き症候群が起こることもあるので将来的によろしくないでしょう。
ただ、勝利を求めること自体は悪いことではありません。勝利を求めることで切磋琢磨し己を高めることができます。従って、練習時間や方法、接し方にルールを設けた”程よい勝利至上主義”の方が将来的にもプラスになりますし、全体的にもプラスでしょう。「勝利することは大切だけど勝利以外にも大切なものはたくさんあるよね」という考えを大切にしたいのです。
しかし、“過剰な勝利至上主義”は短期間に大きな結果をもたらすので、指導能力の低い人は”過剰な勝利至上主義”に飛びついてしまうでしょう。
そもそも、民衆は勝利した人々の方により大きな価値を見いだします。
甲子園もサッカーW杯も、大半の人は勝ったか負けたかに注目します。勝ったから凄い。
実際、「負けたけど、あのチーム良かったよね」という話より、「勝ったあのチームは凄い!」という話の方が圧倒的に多く耳にする。「あいつらが負けたのは○○が足りなかったからだ!」みたいな話も耳にします。
勝つために過剰な勝利至上主義になりたいですが、過剰な勝利至上主義が問題なのは皆分かっているため、誰もが見てもアウトな体罰等は行わない”程よい勝利至上主義”へとシフトするでしょう。
程よい勝利至上主義は「自分たちは正しい行動をしています」と善性をアピールできるため、アウトにならないギリギリのラインで指導を行うことができます。
勝利を目指さなくてはいけない今の世の中を変えることは不可能なので、勝利至上主義はなくならないと思います。
問題なのは勝利至上主義ではなく、暴力等を伴う”過剰な勝利至上主義”だ。
ただ、「”過剰な勝利至上主義”はダメ」と言いつつ、”限りなく過剰に近い勝利至上主義”で在り続けるだろう。
勝てない理由を「努力が足りない」として、努力が絶対的に正しいものとし、努力できないのは本人の責任としてしまう。
結局、「結果が全て」の今の世の中を変えることは不可能なので、勝利至上主義はなくならない。
過剰な勝利至上主義は問題となっている
部活動の体罰問題や、小学生に対するコーチや保護者からの過剰な罵声等によって、勝利至上主義が問題となってきています。
小学生に関する問題は全国大会中止について(柔道、駅伝…小学生のスポーツ大会が“中止)で最近話題になっており、高校の部活に関しては桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件が記憶に新しいですし、2023年になっても市立船橋高の男子バレー部顧問を逮捕のような事件が起きています。
事件ではありませんが、大阪桐蔭の野球部の記事を読むと、やはりスポーツは勝利至上主義なのだと思い知らされます。
ここで気を付けてほしいのは、勝利至上主義が悪いのではなく、スポーツを指導する側に立っている人が、チームの勝ちにこだわり過ぎてしまい、暴力を振るってでもチームを強くしようとしてしまうことが問題という点です。
スポーツにとって勝敗は非常に大切な要素です。勝者は地位や報酬などの栄光を得ることができますが、敗者はひっそりと消えていくことしかできません。勝利を求めることでお互い本気でぶつかり合うことができ、その点がスポーツの楽しさの重要な要素となっているのは言うまでもありません。
勝敗が大切ではな言うのであれば高校野球で全チームに甲子園で試合をさせろ。勝てば立てる舞台だからこそ甲子園に価値があるんじゃないのか。
ちなみに、「敗北は次の勝利に繋がるから無意味ではない」という意見は、敗北という経験を得て次の勝利に繋げようとしている勝利至上主義なので、敗北よりも勝利の方が重要であると言っているのと同じです。
勝利を目指すことは悪くありません。勝利を目指してチーム内で切磋琢磨することで選手は成長しますし、他のチームと競うことでチームはまとまり、全体のレベルも上がっていきます。
問題なのは、勝利を目指すあまり毎日夜遅くまで練習し、休みの日を潰し、暴言・暴力を当たり前に行い、顧問やコーチの言うことを聞くのが絶対で、「お前のためを思ってやってるんだ」というセリフが飛び交うことなのです。
過剰な勝利至上主義は短期的に大きな効果をもたらす
過剰な勝利至上主義は短期的に大きな効果をもたらします。
実際、桜宮高校バスケットボール部体罰自殺事件の顧問は体罰を伴う指導を行うことで市内でも有数の強豪チームに成長させました。
体罰までいかなくても、「厳しい雰囲気の中で言うことを聞かせて練習させることで、能力をある程度上昇させることができる」ことは誰もが知っている事実です。
厳しくする以外にも能力を上げる方法はあります。過剰なまでに厳しくせずとも能力を上げることができている指導者も数多くいらっしゃるでしょう。
しかし、全ての人が的確に指導できる能力を持っているわけではないので、過剰な指導に陥ってしまう人が出てきてしまいます。
そういう人は指導者にならなければ良いじゃんという意見もありますが、それは「できる人」の立場からの意見でしかありません。
能力の無い人はどう生きていけば良いのでしょう?
指導能力の無い人は全員、指導者を辞めなくてはいけないのでしょうか?自分にはできない指導方法を取らなくてはいけないのでしょうか?
きっと、そういう人たちは頭で理解しても今の時代にあった指導方法を実践することはできません。
今の時代にあった指導を行えない指導者たちが勝利を求める結果、短絡的に成果を得やすい”過剰な勝利至上主義”に陥ってしまうのですね。
勝たないと意味はないという意識
人々は、勝利した人しか評価しません。
時には、1位だけではなく、3位まで、もしくは大きな大会に出場すること自体を評価することもありますが、基本的には勝利した人しか評価されません。
人々は、意識的か無意識的か、勝利したものしか注目しないですし、敗者を評価をすることもありません。
敗北にも価値はありますが、勝利と比べるとどうしても価値は少ないのです。
甲子園出場→凄い
甲子園優勝→もっと凄い
甲子園に出場できない→そもそも注目されない、多くの人は存在すら知らない
M1グランプリ決勝進出→凄い
M1グランプリ優勝→大量の仕事が入るくらい評価される
M1グランプリ1回戦敗退→誰も知らないし評価しない
大学受験合格→おめでとう
大学受験不合格→頑張ったね
この記事を読んでいるあなたも、きっと上記のような内容と同じ反応をするのではないかと思います。
皆、心のどこかで「勝つことが一番大切なことだ」と感じているのです。
世の中は勝利を称賛するのです。
過剰な勝利至上主義は問題だと理解され始めている
数多くのニュースにもなっているように、”過剰な勝利至上主義”が問題だと理解され始めています。
「指導?暴力を使って言うこと聞かせてるよ~」
なんて発言したら100%叩かれます。そういう世の中になってきています。
一部、今の世の中を理解できず未だに暴力を使って指導している人がいるらしいですが、ある程度の知性を持ち合わせている人は”過剰な勝利至上主義”が問題であることを理解しています。
しかし、勝つためにはある程度の厳しさは必要です。
そこで、”過剰な勝利至上主義”は問題なので、体罰をしない、暴言をあまり吐かない、最低限の休みを用意する、でも厳しい”程よい勝利至上主義”を行うことになるのではないでしょうか。
練習時間や練習方法、暴言・体罰などの接し方のルールを設け、現代の社会的に正しいとされるルールの範囲内で一番厳しくするのが現実的に誰しもが行える指導方法だと思います。
もちろん、理想の指導方法はもっと別のところにあるかもしれませんが、一番単純で分かりやすいのが”程よい勝利至上主義”であると思います。
勝てないのは「努力不足」と決めつけることで正当性を保つ
それは、練習不足だからだ!
多くの指導者は、勝敗は自分次第、コントロールできるもの、「負けたのは自分(もしくは指導者)の責任」とすることで、練習をすることは絶対的に正しいものなのだとしています。
この理論はほとんど合っていますが一部間違っています。
なぜなら、身長などの身体的特徴は遺伝により決まっているのと、運動神経は幼少期の育った環境や食生活に左右される部分が大きいなど、本人ではどうしようもない要素が存在しているからです。
「負けたのは練習不足だったから」ではなく、「遺伝や幼い頃の様々な環境のせい」の部分もあるため、負けたのは練習不足のせいとは限らないのです。
「遺伝や幼い頃の様々な環境のせい」による違いに目をつむり、「練習不足」のせいにすることで、厳しい練習を正当化することができます。練習は絶対だと決めることができるのです。
ただ、練習をすることである程度レベルは上昇するため、練習不足のせいで負けた場合も多々あるでしょう。練習したことで実際に上手になりますよね?練習が大切であることは疑いようありません。
言いたいことは、「負けたのは練習不足のせいかもしれませんが、どんなに練習しても勝てない相手はいる」ということです。全ての敗北を「練習不足」のせいにするのは指導者の都合でしかないのです。
ちなみに個人的には、絶対勝てない相手にでも十分に練習して挑戦し続けることがスポーツだなと思っています。
まとめ
過剰な勝利至上主義は間違いなく大問題です。
ただ、勝利を目指すことは当然というか、現実問題として今の世の中は勝利を大切にしている仕組みになっているため、勝利至上主義自体は悪いことではありません。
実際問題、勝利を目指すことが楽しかったり勝利を目指すことで上手くなったりするので、勝利を目指すことは根本的な部分で非常に大切な要素であると言えるでしょう。
勝利至上主義ではなく、勝つためには何をしても良いと考える”過剰な勝利至上主義”が問題であるため、今の世の中に合った、最低限のルールを守った”程よい勝利至上主義”が多くなるのではないでしょう。