アリとキリギリスはどっちが幸せなのか
アリとキリギリスはどっちが幸せなのか、考えたことはありますか?
まず、アリとキリギリスというイソップ寓話を簡単に説明します。
夏の間、働き者のアリは冬に備えるためせっせと働き続け、キリギリスは遊び続けます。
冬になると、アリは備えていた食べ物で生きていくことができるのですが、キリギリスは食べるものが無くなり困ってしまいます。
その後、アリがキリギリスに食料を分けたりそのままキリギリスが死んでしまったりと結末は色々ありますが、大雑把に言うと働き者のアリと怠け者のキリギリスがいましたという話ですね。
さて、アリとキリギリスはどっちが幸せなのでしょうか?
「アリとキリギリス」の教訓
『アリとキリギリス』は働き者のアリと怠け者のキリギリスということが特徴的な物語ですが、この寓話の教訓は
・せっせと働かないとキリギリスのように困ってしまうぞ
・食料を貰えるならキリギリスでいいや(キリギリス生存ルート)
・幸せは人それぞれだから、アリでもキリギリスでも人の生き方はそれぞれだ
等です。
童話の教訓くらい人それぞれ違っていても良いと思うのですが、
二極化して考えすぎです。
どうしてアリかキリギリスの片方だけを良いとか悪いとか判断してしまうのでしょう。
キリギリスは駄目だからアリを見習おう。
アリのように働いてばかりだとつまらないからキリギリスになろう。
このような、どちらか一方に分かれてしまうことは二極化的な思考であると私は思います。
二極化的な思考の例「性悪説」と「性善説」
ここで、二極化した考え方の例として「性悪説」と「性善説」を紹介します。
性悪説と性善説は紀元前の中国で生まれた考え方であり、
人は生まれながら悪(弱い存在)であり努力することで善となる。というのが性悪説で、
人は生まれながら善でありその善は磨く必要がある。というのが性善説です。
本来の意味は大体こんな感じなのですが、
性悪説は「人は生まれながらに悪い存在である、人を疑うべきだ。」
性善説は「人は本来善い存在である、人を信じるべきだ。」
という意味で使われることが多いです(本来の意味ではないんですけどね…)。
これはキリスト教の原罪の考え方と似てますね。
今回はこちらの意味で考えてみます。
人は生まれながらにして「悪」なのか「善」なのか。あなたはどう考えますか?
生まれながら「悪」なのか「善」なのか。
そんなのはどちらでもないのです。
性善説も性悪説も人の考え方なのであって、人間が生まれながらにして悪だの善だの極端な方に偏っているわけないのです。
「悪」も「善」も時代によって定義が異なるところがあるので、どちらか片方になるはずだという考え方は不自然ですし、人の性格がどうなるのかなんて誰にも分かるはずありません。
二極化して考えすぎている
性悪説と性善説、アリとキリギリス
どちらも片方だけが正しいというわけではありません。
性悪説が正しいという場合もありますし、性善説が正しい場合もあります。
アリとして生きることが幸せな時代や人がいれば、キリギリスとして生きることが良い時代や人もいます。
どちらか片方だけが正しいということは非常に不自然のはずなのですが、どうしても片方に考えが寄ってしまうことが多いです。
「敵」と「味方」しかいないわけではなく、どちらでもない人もいます。
「好き」と「嫌い」しかないのではなく、どちらでもないこともあります。
「損」か「得」しかないのではなく、どちらでもないときもあります。
何事も片方だけが正しいというわけではないのです。
アリとキリギリス、どちらの生き方が良いと思いますか?
アリのように働くだけの人生、そんなものは嫌です。
キリギリスのように遊ぶだけの人生、それも嫌です。
アリのように働きながら、キリギリスのように遊ぶこともある人生。
僕はアリとキリギリスのどちらも大切だと思います。
片方だけが正しいと考えてしまう”二極化思考”をやめ、どちらも正しい(悪い)可能性もあり、どちらも大事(どちらも大事ではない)こともあることを理解しておきたいです。
ちなみに、アリとキリギリスは元々アリとセミだったそうです。これ豆知識です。