何かを食べたとき、「美味しいか美味しくないか判断できる人」もいれば、「何を食べても”美味しい”と言える人」もいます。
今回は、馬鹿舌は幸せなのか、味覚音痴の方が人生は得なのかについて考えていこうと思います。
馬鹿舌は幸せなのか?
馬鹿舌とは「どんなものを食べても美味しい!」と思う人のことをいいます。
貧乏舌ともいいますね。
一方、馬鹿舌の対義語として、味の違いが分かる人のことを「舌が肥えている人」といいます。
馬鹿舌と舌が肥えている人はどちらが幸せなのでしょうか?
味覚音痴の方が人生は得なのでしょうか?
馬鹿舌の方が幸せだと思う人の主張は、
馬鹿舌の人はどんなものでも「美味い!!」と感じることができる。
舌が肥えている人が楽しめない食事も楽しむことができるので幸せだ。
というもので、舌が肥えている人の方が幸せだと思う人の主張は、
例えば2種類のイチゴがあったとする。
馬鹿舌の人は「どっちも美味しい!!」と答えるが、2つのイチゴの味の違いはわからない。
舌が肥えている人は味の違いが分かるから、味の違いを分かった上でイチゴの味を楽しむことができ、馬鹿舌より幸せだ。
というものです。
馬鹿舌は何でも楽しむことができるから幸せ、舌が肥えている人は味の詳細が分かるから幸せ、ということですね。
違いが分かる人の方が幸せなのか?
この話は映画でも似たことが言えます。
「どんな映画でも面白いと感じる人」
「面白い映画とつまらない映画の違いが分かる人」
馬鹿舌と舌が肥えている人の関係に似ていますよね。
「これ全然面白くなかったんだけど、どこが面白いの?」
という意見をよく聞きませんか?
「君の名は。観たけどつまらなかった。これどこが面白いの?」
「鬼滅の刃の映画がヒットするとか考えられない。煉獄さんで泣く人とかいる?」
という意見を、一度は聞いたことありますよね。
音楽についても同じです。
「演奏者の違いや音の違いが分かる人」と「どんな演奏でも凄いと思える人」はどちらが幸せなのでしょうか?
自分の感性に自信を持て
自分の感性に自信を持ちましょう。
自分が美味しいと感じたものは間違いなく美味しいですし、自分が美味しくないと感じたものは間違いなく美味しくないです。
もっと堂々としていれば良いと思いませんか?
馬鹿舌の人は馬鹿舌であることを楽しめばいいですし、味の違いが分かる人は味の違いが分かることを楽しめれば良いです。
映画や音楽、その他のジャンルのものでも同じことが言えます。
例えば、私はある程度物理学の勉強をしたので、物理学の楽しさや面白さを感じることができます。
普通の人が知らないような理論を楽しんだり、理論や法則の違いや楽しさをある程度楽しむことができるでしょう。
しかし、物理学が全く分からない人を見て「あの人は物理の良さを理解できないんだ、かわいそう。」と思うことは全くありません。
なぜなら、私が物理の良さを知っているのと同時に、言語学や民俗学等の良さや違いを理解できていないことを知っているからです。
味の違いが分かる人でも映画の良し悪しは分からないかもしれない、音楽の違いが分かる人でも物理の良さは分からないかもしれない。
ある一点だけを見てその人が幸せかどうか判断したり、見下したりするのは間違いであると私は考えます。
他人が美味しいと感じたことを否定する権利は誰にもありませんし、自分が美味しくないと感じたことを否定する権利も誰にもありません。
「こんな料理を美味しいと思える人は馬鹿」
ではなく
「俺には美味しいと思えなかった」
と言いましょう。
「なんでも美味しいと思える自分は幸せだ」
素晴らしいことだと思います。
しかし、「何でも美味しいと感じることができない人は不幸」というわけではないのです。
他人の幸せを尊重できるようになりたいですね。