イギリス、オランダ、ベルギーで行なわれた一連の調査で、社会心理学者のあるチームがこんな発見をした。大学教育を受けた回答者は、教育水準の低い人びとに対する偏見が、その他の不利な立場にある集団への偏見よりも大きいというのだ。
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』より
高学歴の人は低学歴を見下しているのでしょうか?
日本のネット社会では、「学歴」で人を判断する人をよく見かけます。
という書き込みに対し、
「高卒かよゴミじゃん」
「低学歴で草」
「土方でもしてるんか?」
「雑魚すぎ」
のような書き込みを、一度は必ず見たことがあるのではないでしょうか。
一部のネット上において、低学歴を馬鹿にするような雰囲気が存在することは間違いありません。
さて、最近では「男女差別」「LGBT」に敏感な世の中になっており、女性の社会進出に反対の人は後ろ指をさされるでしょうし、性的マイノリティに対する考え方も広まってきました。
(日本では「人種差別」についてあまり活発に議論されず、理解もまだ浅いですが…)
様々な差別について考えられている時代ですが、高学歴の人は貧困・低学歴・ブサイクを差別しているのでしょうか?
今回は、高学歴の人が認めたくない事実を書き連ねていこうと思います。
高学歴のエリートになれるかどうかは運
高学歴のエリートになれるかどうかは運です。
チャンスは平等でも、スタート地点や結果は平等ではありません。
良い点数を取れたのは「努力して勉強したから」ではなく、「努力することができる才能」もしくは「数学を簡単に理解できる才能」と「勉強のできる環境」を持っていたからです。
高学歴の人は「自分が高学歴になれたのは努力をしたからだ」と考えていますが、それは違います。
アメリカのミシガン州立大学とテキサス大学で「努力の遺伝による影響」について合同研究が行われました。
850組の一卵性双生児を異なる家庭環境に分けてから楽器の練習をさせ、楽器の練習の努力を比較したところ、「より多くの練習を行う傾向は遺伝の影響も受けている」という結論に至った。
とのことです。
つまり、「努力の遺伝子」のようなものが存在し、全く同じ環境であっても努力できるかどうかは「努力の遺伝子」の有無かもしれないということです。
この調査はあくまでも「音楽」に関する努力の調査ですが、音楽以外にも「努力の遺伝子」があっても不思議ではないですよね。
すぐれた音楽家は、その技能を獲得するために必要な長時間の練習ができるよう遺伝子にプログラムされている
「努力は才能に勝る」と言いますが、努力できるかどうかも遺伝の影響であり、才能です。
「努力」できたのは運よく努力の才能が遺伝していただけであり、「努力」は誰でもできるわけではありません。
同様に、「環境」が整っていたのも運が良かっただけです。
つまり、高学歴のエリートになれるかどうかは運なのです。
もちろん、才能を持っていたとしても努力をしなければ開花しないかもしれませんが、努力のできる環境にあるかどうかがそもそも運です。
チャンスは平等でも、チャンスを活かせる才能や環境があるかどうかは運なのです。
「誰にでもできる」は最低最悪の侮辱
高学歴の人は、「自分が高学歴になれたのは努力したからだ」と考えており、たまたま勉学の才能や努力の才能を持っていただけだということに気付いていません。(もしくは、気付いていても認めません)
「自分が高学歴になれたのは努力したからだ」は同時に、「お前が高学歴じゃないのは努力をしなかったからだ」という意味を持ちます。
高学歴の人は、こういう思考回路を当たり前のように持っています。
こういう思考回路になってしまう理由は至って単純で、
成功とは自分の力で獲得するもの
と考えているからです。
「懸命に努力すれば必ず成功する」とまでは言いませんが、「成功するのに一番大切なことは努力をすることだ」と考えている人が多いのです。
高学歴の人は、自分が高学歴になったのは運が良かっただけ(才能を持って生まれた、環境が良かった等)という事実に気付いていません。
「努力は誰にでもできる。努力さえすれば勉強ができるようになる。」と考えているせいで、「誰にでもできるよ」という言葉が出てしまいます。
「誰にでもできるよ」は最低最悪の侮辱だと気付いていないのです。
と言われたらどう思いますか?
数学を理解できない人にとって、この言葉は
数学を理解できない
↓
理解できないのは努力をしていないから
↓
数学を理解できないのはお前のせい
という意味になってしまいます。
学校の授業を全て数学の時間にしても、全員が数学者になれるわけではありません。
数学が苦手な人に数学をたくさん勉強させることで、二次関数までは何とか理解できたとしましょう。
しかし、いくら勉強時間を増やしても指数対数関数は理解できないかもしれません。
運動が苦手な人に縄跳びをたくさん練習させることで、二重跳びまでは何とかできるようになったとしましょう。
しかし、いくら練習時間を増やしても三重跳びができるとは限りません。
高学歴の人は、自分でも気付かない内に「できないのはお前のせい」と考えており、それを口に出します。
頑張ってもできない人、そもそも頑張れない人にとって、この言葉がどれ程辛いのかを想像することはできないのでしょうか?
他の人より多く勉強してるのに結果がでないのはおかしいよね?
と言われているようなものです。
「頑張ったね!」と褒められることで成長する人がいるのは確かですし、「頑張ったね!」と言うことが全て悪いとは言いません。
しかし、できる人のことを「頑張ったね!」と褒めることは、頑張ったけどできない人のことを追い詰める可能性もあるとは思いませんか?
男女差別・人種差別・LGBT差別を許せない気持ちはどこから来るのか
何度も述べたように、「自分が高学歴になれたのは努力したからだ」と考えています。
成功は自分が一生懸命頑張ったものだからであり、努力によって人生を変えているとの自負を持っているのです。
さて、性別・人種・国籍・性的指向は自分の意志では変えられないものです。
高学歴の人は「自分は低学歴に人よりも道徳的に優れており、差別に寛容的である」と思っているため、性別・人種・国籍・性的指向のような自分の意志で変えられないもので評価することを良しとしません。
しかし、採用や昇進など、私たちは誰かを評価しなければならない場合があります。
そこで、
学歴・資格・経歴は本人の意思・教育・努力によって変えられるものだ
と考えることで、「低学歴は自己責任である」とし、見下しても良いと考えてしまうのです。
高学歴の人は低学歴の人を見下しているのか?
2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た。
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』より
イギリス、オランダ、ベルギーで行なわれた一連の調査で、社会心理学者のあるチームがこんな発見をした。大学教育を受けた回答者は、教育水準の低い人びとに対する偏見が、その他の不利な立場にある集団への偏見よりも大きいというのだ。
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』より
差別される側の人からすると、自分の属性(性別・人種・性的指向等)が世間からどれ程差別されているのかはどうしても気にしてしまいます。
差別が少なくなってきた世の中において、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見です。
高学歴エリートは、できる人に「頑張ってるね」と言ったり、できない人のことを認めなかったりと、傲慢な態度を取り、低学歴の人を見下しています。
高学歴エリートの人には分からないかもしれませんが、「見下されたことがある」と心当たりのある低学歴の人は非常に多いです。
「賢い」ことが偉い、「賢くない」ことは偉くない。
このような考え方に不満を持ち、「高学歴の人の考えに従うのはうんざりだ」と反発した結果が、ドナルド・トランプの当選であり、イギリスのEU離脱です。
民主党のオバマ大統領やクリントンは、能力のあるエリートを信頼し、優遇しました。
ドナルド・トランプの当選やイギリスのEU離脱が、高学歴の人が低学歴の人を「見下している」ことの証明なのです。
こういう人に限って、人を見た目で判断し、頭の悪い人や要領の悪い人、能力のない人を心のどこかで見下し、貧乏な人と関わりたくないと考えている差別主義者だと思いませんか?
「できる人が偉い」ことが悪いわけではないですが、「できる人が偉い」を全てと考えるのは良くないと思います。
上司が有能であることに越したことはないかもしれませんが、一番有能な人を上司にする必要はないのです。
マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
今回参考にした本です。
こういう本を読むことができ、内容を理解できるかどうかも、生まれ持った運なのかもしれませんね。
2021年に話題となった一冊です。
読んでみると楽しいですよ。